大理は、中国雲南省北西部の古都。大理石の産地として有名。淡水湖「海」(じかい)の沿岸に位置する。国内に約160万人いるという少数民族「ペー」族が多く住む。大理ぺー族自治州の政治、経済、交通などの中心地。唐代初期に6つの詔国(王国)が割拠して勢力を争っていたが、8世紀になってチベット・ビルマ族の王国「南詔(なんしょう)」が統一。滅亡後も大理の地域では13世紀半ばまでタイ族による「大理国」が建国されるなど、少数民族が独立国家をつくり、仏教を国教として保護していた。中国の勢力下に入っていた明代も仏教が盛んで高僧を輩出したという。(戸川利郎)

中国・大理 酸っぱく、辛い高原の民族料理

2000年夏

大理石の産地、中国雲南省の大理には、国内に約160万人いるという少数民族「ペー族」が多く住む。そこのペー族料理は、標高2000メートル以上の山野でとれた野草や、標高1972メートルに広がる高原湖「ジ海」の魚介類など、山海(湖)の幸を使った素朴なメニューが多い。住民によると、味の基本は「酸っぱく、辛い」。酸味で食欲を増進させ、辛味で体を温めて高原の寒さに耐えるのだという。

湖の西岸北部の集落に「家庭料理を出す店がある」と聞き、地元の人に案内してもらった。店の造りは、中庭を三方から囲むように部屋があり、正面に「照壁」と呼ばれる目隠し用の白壁を配した「三房一照壁」という伝統様式。店員の女性たちは色鮮やかな民族衣装を着けている。見ているだけでも楽しい。

運ばれてきたのは、湖の魚と豆腐、香辛料を煮込んだ料理、ゆでた小エビ、湖に生える植物を使ったスープ、ツツジの花のいためものなど。魚料理の強い辛味と、ツツジの柔らかな甘み--。大理の豊かな自然そのものの味わいだった。


麗江、大理(中国) 高原の風そよぐ懐かしい街 世界遺産は明代の風情

1999年春

常春に民族衣装の華やぎ

石畳の道に、さわやかな高原の風が吹いた。

少数民族の宝庫といわれる中国雲南省。その西北、処女峰・玉龍雪山のふもとに納西族(ナシズー)の街・麗江がある。真新しいビルが並ぶ目抜き通りのすぐ裏側に、世界遺産に指定された、巨大な旧市街が隠れていた。

「老街」の名の通り、明代からの古い家々の間を清流が走り、小橋と石畳としだれ柳の小道が果てしなく続く。そこを、さらさらと乾いた、なんともいえぬ心地よい風が通り抜けていくのだ。

雑貨屋の店先で、マージャンが始まった。女主人の肩飾りに縫い付けられた、北斗七星に見立てた7つのワッペンが夕日を浴びている。

「雲南は年中ぽかぽか陽気だから、のんびり屋が多い。今日はもう店仕舞いだな」と、買い物客が苦笑する。

日が落ちると、イルミネーションが輝き始めた。豆電球をつないで屋根や窓枠を縁取った、簡素な電飾に浮き上がる老街は、芝居の書き割りのような華やかさだ。

しかし、喧騒(けんそう)を避けて一歩わき道に入ると、派手な電飾は裸電球へと早変わり。生活のにおいが漂ってくる。

薄闇(やみ)の中、窓も戸もない小さな食堂の隅で、若い男女が楽しげに麺(めん)をすすっている。向かいの洋品店では、家族5人が店内で1つの鍋(なべ)をつつく。川べりで子供たちが数人、遊んでいる。オニが後ろを向いて何やら唱えている隙(すき)に、他の子らが素早く近づいていく。ルールは少し違うが「だるまさんが転んだ」ではないか。

淡い光が照らし出す、いつか見た、懐かしい風景。旅行者の感傷に気づくはずもなく、子供らは、飽きもせず同じ遊びを繰り返していた。

老街に心を残しながら、菜の花の街道を車で3時間。麗江と並ぶ雲南省の華、大理の街に入った。

西に大理石の産地として名高い蒼山の山並み、東は細長く耳の形をした湖・?海。飛び切りの山水にはさまれた大理は、白族(パイズー)の街だ。

南北五路、東西八路。碁盤の目のように整然とした旧市街「古城」の、どこか南国風の大通りを、白地に赤や緑を重ね着した、華やかな白族の娘が歩いていく。

開け放った窓辺にみずみずしい野菜を並べた、小さな食堂に入った。?海名物のタニシと白族風寄せ鍋。ニガウリに青豆に小ウリ、季節野菜の炒(いた)め物でテーブルがいっぱいになった。

「明日は沙坪の市場で野菜を買い込んで、私の実家で両親と食事をしましょう」

「大理では少数派」という漢民族の若いガイド、李晶さんの思わぬ誘い。一家団欒(だんらん)と聞いて、もう一度老街の薄闇に戻りたくなった。 (長井好弘記者)

メモ
あし

関西空港-昆明直行便が今春から就航した。水、日の週2回出発で、所要時間は約4時間半。昆明-麗江間は飛行機で約50分。

世界園芸博覧会

1999年5月1日から10月31日まで、雲南省の省都、昆明市で開催される。気候温暖で1年中花が絶えない昆明は、「春城」の別名を持つ。


今も残る日本僧供養塔 中国・明朝時代 政変で客死 雲南省大理で公開 地元民追悼 600年交流の証し

2005年12月

約600年前に室町時代の日本から中国・明朝へ仏教を学びに訪れ、政変に巻き込まれて大理(現在の雲南省)に流刑となり客死した日本人僧4人の遺骨を納めた供養塔「四僧塔」が2005年12月19日、邦人記者に公開された。僧は祖国を思う詩を詠み、その死を悼んで中国の官僚らが詩を作るなど、交流を深めた。明代の日本人僧の存在は、遣唐使以来本格化した日中仏教交流の一端を示すものと言えそうだ。

四僧塔は蒼山・竜泉峰のふもとに位置し、高さ約5メートル、幅約3メートル。石を積み上げ造られている。地元の少数民族ペー族の間で日本人僧の供養塔として伝えられ、専門家が1999年に確認した。第2次世界大戦や1960-1970年代の文化大革命でも破壊されず、地元住民に保護され続けた。

大理州博物館の謝道辛館長の説明などによると、当時大理にいた日本人僧はこの4人を含めて計9人で、明朝期の文献には日本人僧の詩55作が残っている。4人のうちの1人とされる機先は「長相思」と題した詩で、「私の思いを涙に寄せて東に流す」と郷愁を詠んだ。また別の1人、闘南は京都妙光寺の僧で、有名な書法家だった。

日本人僧は明朝初期、仏教の勉強のため首都南京などに入った。「当時の日中の懸け橋は僧侶だった」(謝館長)といわれ、初代皇帝の朱元璋に日本の事情を説明した僧もいたという。しかし、当時発生した政変に加担したとみなされ、一部は仏教の盛んだった大理へ流刑になった。

さらに、中国沿岸で海賊「倭寇」が猛威を振るう中、明朝が取った海禁(鎖国)政策のため日本人僧は帰国不可能になり、異国の地で生涯を終えた。

「空の月を見たら君の面影を見る」

なぜ異国の地で流刑、鎖国で帰国できず

「10年以上も故郷を離れ、秋風が吹いて故郷を思い出す」-。仏教を学ぶために14世紀半ばに中国・明朝を訪れ、政変に巻き込まれて首都南京などを追放され、流刑の身となった日本人僧。このうち詩の達人だった天祥は、明朝による海禁(鎖国)政策で帰国が絶望的な中、詩に募る郷愁をぶつけた。一方、ペー族ら地元住民も日本人僧の遺骨を納めた「四僧塔」を造るなど、約600年前の日中間の深いきずなが垣間見える。

大理に来た日本人僧は、ペー族や宗教関係者のほか、明の官僚らとも懇意にした。大理州博物館の謝道辛館長は「文献などから(日本人僧と同様に)政変で流刑となった官僚とも仲良くしていたことが分かる」と語る。

日本人僧の1人、機先は「空の月を見たら君の面影を見るがごとく、思い乱れて私の思いを涙に寄せて東の日本に流す」という詩を詠んだ。こうした思いを知ってか、中国詩人の胡粋中は中国へ来て雲南で死んだ日本人僧を悼む詩を残した。


長野県・須坂園芸高と中国・大理農校 「姉妹」7周年の式典 校長ら来訪

1999年12月

中国雲南省の大理農業学校の普校長ら3人が1999年12月4日、姉妹校の須坂園芸高校(長野県須坂市)を訪れ、大理農業学校と須坂園芸高校の姉妹校提携7周年の記念式典に出席した。全校生徒が出迎え、交流した。

訪れたのは、普校長と、大理農業学校3年の熊艶萍さん、大理州農牧局の王副局長。

式典では、1999年夏、大理農業学校を訪問した須坂園芸高校の小島辰比古校長と、生徒会長の土屋寿子さんが「温かいおもてなしを受け、貴重な体験ができた」などと感謝のあいさつをした。普校長は「両国の農業の発展のため、交流を深め、相互研究をしていきたい」と話した。

熊さんは、民族衣装を着て、現地の少数民族、白族がお祝いの行事に踊る民族舞踊を披露した。

3人は1999年12月5日以降、長野市内のリンゴ園や長野県果樹試験場を視察したり、長野市内を見学し、12月8日に帰国する。


中国・大理市を訪ねて徳島県美馬市使節団同行記~歴史・町並みに類似点

2012年5月、徳島新聞

徳島県美馬市が2012年5月14日~18日、友好都市の中国雲南省・大理市へ初めて親善使節団(団長・河野尚二副市長、30人)を派遣した。同行取材で垣間見た現地の様子や訪問の成果を紹介する。

「うわあ、うだつが上がっとる。見てみい」。団員が思わず歓声を上げたのは、雲南省大理市喜州地区の古民家が立ち並ぶ通りに入ったときだった。古民家の1階と2階の屋根の間に、装飾が施された石造りの柱が備わっている。それが、徳島県美馬市脇町のうだつの町並みで見られる防火壁「うだつ」とそっくりなのだ。

「うだつ」と比較も

雲南省大理市喜州地区には、大理市を統治する少数民族・大理白(ペー)族の伝統的な古民家が数多く残る。唐時代の建築様式で建てられた家屋の柱には、魔よけや厄よけの願いを込め、植物の絵や漢詩などが刻まれている。景観はうだつの町並みと似通っており、団員は古里の名所と比べるようにしながら散策を楽しんでいた。

「町並みがこんなに似ているとは思わなかった。雲南省大理市との距離が近く感じられた」。団員の重本郁子さん(66)=徳島県美馬市脇町西赤谷、主婦=は早くも親近感を覚えた様子。

藍の栽培で栄える

他にも雲南省大理市と徳島県美馬市には共通点がある。美馬市では江戸中期から明治期にかけて藍の生産が盛んに行われ、うだつの町並みも藍商人の商売拠点として隆盛を極めた。大理市も8世紀に建国された南詔国時代から藍の生産地として栄えた歴史があり、一部の地区にはかつての伝統が息づいている。

「大理市で藍の栽培が盛んだったのは、大理市中心部に約250平方キロの淡水湖・じ海があり、豊富な水源や肥沃(ひよく)な土壌に恵まれたからです」。藍染の伝統が残る大理市周城地区を巡りながら、同行ガイドの劉洪昆さん(39)は流ちょうな日本語で藍生産の歴史を説明した。

現在は化学染料の普及で藍の栽培は衰退したというものの、大理市周城地区にある数軒の民家では、観光客向けに藍染商品の製造や販売が続けられているという。

農業や食文化、生活様式、信仰面でも大理市を身近に感じたという団員は多い。平田翠(みどり)さん(79)=徳島県美馬市脇町馬木、主婦=は「実際に大理市を訪れてみて中国のイメージが変わった。使節団に参加して得た知識や大理市の魅力を知人にも伝えたい」。

佐藤賛治さん(71)=徳島県美馬市脇町野村、農業=も「表面的な交流だけでは現地の人の生活実態をつかめない」と指摘しつつ、「美馬市側から農業技術支援などを行い、雲南省大理市と徳島県美馬市の関係がさらにより良くなるような取り組みが必要」と交流の深まりに期待した。